基本は朝勉強のブログ。時々すっとびます。
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今日は「芋粥」
2008年12月02日 (火) | 編集 |
今日は芥川龍之介の「芋粥」……なんだけど。

ふと、思う。

読書とは何ぞや?
文学研究とは何ぞや?


実は、それを通して、己の心の中を覗いているのではないか?


…………ってねぇ、思うほどに、今回の「芋粥」と、山崎甲一先生の「芋粥論」は、タイムリーでした。


下の日記でも、ちらっと書いてますけど、私、先日投稿したヤツが落ちました。
元原稿は、別の賞で一次通過をしているものだったから、余計にショックでした。

直したのに、悪くなっちゃったのぉぉぉ?
それとも、私の筆力が落ちちゃったのぉぉぉぉ?

って。

そして、「芋粥」の主人公・五位は、「芋粥を飽きるほど食べてみたい」という望みを持っています。そして、それは、彼にとっては一生をかけてもいいほどの望みで……

「人間は、時として、充されるか充されないか、わからない欲望のために、一生を捧げてしまう。その愚を哂う者は、畢竟、人生に対する路傍の人に過ぎない」

と、本文にあります。

それって、私じゃん?
報われるかどうかわからない作品をせっせと書いては投稿している……

なんか、ぞぞぞっとしました。

そして、五位は、その望みをひょんなことから叶えられます。
でも、それは、悪意のこもったものでした。
それでも叶ったと言うには、あまりにも残酷な……そして、叶ってしまったからには、夢をみることすらできなくなる、なんとも後味の悪い結末です。

ここで、思わず、某自費出版系の会社を思い出してしまいました。
全国の書店に本が並ぶと聞かされて、書いた人は大喜びでお金を払い、でも、実際はたいした営業すらしてもらえなかった(らしい)……自分自身、実は講評と見積もりをいただいたことがありました。(お金がなくてあきらめたけど)
この出版社のことがニュースになった時、「褒められて、のせられて、お金払って本作って、売れるって信じるなんてバカじゃん?」みたいなコメントを、mixiの中でずいぶんと見ました。
でも、私は、そうは思えなかった……冷静に考えればそうかもしれないけど、一生懸命書いて、どうしても作品に日の目を見せたいっていう、切実な気持ちが、わかるから……バカじゃん? って言えちゃうのは「路傍の人」だからだって、思います。

なんで、こんな後味の悪い作品を……と、思いつつ、山崎先生の論文を読みました。

先生は、「芋粥」もまた、「羅生門」「鼻」と同じテーマを持っている、本来ならば自力でなんとかしなくてはならないものを、安易に人任せにしたことが五位の悲劇の始まり……いや、そもそも、一生をかけてもいいほどの「願い」を、安易に外に出してしまったことから始まっている、本来は胸の内に秘めて、自分の力でなんとかするべきだったと作者は考え、五位を批判しているのだ……といったようなことを(大まかに言えば)書いています。

とはいえ。
おそらく、この要約は正しくないです。
今の私が、山崎先生の論をこういうものだと紹介してしまうのは、私自身の心の問題なのだと思います。

芋粥への思い……一生かけても叶うかどうかわからない五位の思い。
私の、創作への気持ち……やっぱり、一生かけても叶うかどうかわからない。
もし、ここで、「本を出してあげるよ」と悪魔のささやきに出会ったとき……果たして、「いえ、自力でやります!」と突っぱねる事ができるだろうか?
おそらく、五位のように、「かたじけのうござる」と言ってしまう気がします。例え、相手に悪意があろうと、周りに嘲笑されようと……。

でも、内心では、わかっているんです。
私が落ちたのは、私の書いたものが、一定のレベルに満たないからなんだって。

「本当に、心からの切なる願いなら、簡単に叶えようとしてもダメなんだよ。
漱石が芥川に書いた書簡のように、うんうん一生懸命、押していくしかないんだよ。
それでも、一生かけても叶わないかもしれない。
そんなあなたを、人は笑うかもしれない。
だけど、そんなこと気にしてやらないなら、あんただって路傍の人なんだよ」

と、なんだか、見えない何かにくぎをさされたような気分になりました。

もちろん、先生はそんなつもりで書いたわけではなく、研究者として、丹念に読み取っていった結果でしょう。

でも……もしかしたら、ほんっとーにもしかしたら、だけど……

先生も、「芋粥」を通して(そして、他の芥川作品を通して)、自分自身と対話をしていたのかもしれないなぁ……。
その中で、芥川の中にある「テーマ」と、
自分自身の中にある「思い」が、
共鳴したからこそ、「この作品で論文を書こう!」
って気持ちになったのかも。


なんて、ちょっと思いました。

そして、最初に戻るわけです。

読書とは何ぞや?
文学研究とは何ぞや?

実は、それを通して、己の心の中を覗いているのではないか?
作品を通して、自分自身と対話しているのではないか?

そんなことを思った、「芋粥」と「芋粥論」でした。

コメント
この記事へのコメント
変にしったかぶりをしない、悟ったようなことを言わない、わかったような言い方をしない、とか、自分への戒めを思い出しました。

たかだか40数年生きたぐらいで、人生の何を、世界の何を知っているというのか。たかだか40数年生きたぐらいで、相手の数十年間の人生の何がわかるというのか。その人の経験してきたことの一端も、その痛みも、苦さも、味も、ほんとうにはわかっていないのに、「わかるよ」なんて軽々しく言えない。

「芋粥」は読んだことないけど、人の切なる願いとか、なぜその人がそんなにも、端から見て愚かなことに一生を捧げているのか、って、ほんとうにはわからない。だから、しったようなことを言って、バカなことに一生を捧げている人をあざ笑うことはできないなあ、と、改めて考えさせられました。

かくいう自分も、端から観れば愚かなことに一生をかけているかもしれないけれど。路傍の人になるよりは、夢見る愚者でいたいと思ったりもします。

なんか、ほんと、考えさせられます。
2008/12/08(月) 09:50:28 | URL | ルビー☆ローズ #mZ9LTiPM[ 編集]
ルビーさん

……そうなんですよね。
例えば、某テレビ局でやっている、年に二回くらい? 番組が変わる頃にやる、サ〇ケに、人生注いじゃっている人がいますよね。そのために、自分の一年があり、そのためだけに体を鍛え、でもクリアーできない・……見ててせつなくなったりします。
場合によっては、仕事まで失ってるのをみて、「馬鹿だなぁ」って笑う人もいるんだと思います。
でも、本人は、それが幸せなのかもしれない……思わず、がんばれって思うけど、家族はつらいだろうなぁ……なんて思ったりもする……。

別の本で、「人に笑われる人間になるなって言われたりするけど、そうではなくて、人を笑う人間になるなっていうほうがしっくりくる」と書いてあるのを読んだ事がありますが、自分自身もまたそうありたいなと思ったりします。
2008/12/08(月) 14:30:07 | URL | ♪芽莉衣♪ #DKfek3gQ[ 編集]
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